無の探求

通称「なす」 無色で無職な無敵なフリーライター。まだ誰にも染められてません。今ならあなた色に染めるチャンス。2017年7月18日ブログ開設。

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障害者は普遍的な価値を持つ「火種」となった

感動ポルノという言葉が台頭し、障害者に関する論争は未だかつてないほど激しくなりつつある昨今。私も吃音やアスペルガーなどの障害を抱える身として他人事ではない(と勝手に思っている)わけで、この手の問題に対しては常日頃思うことがあります。そこで今回はそのへんの思いの丈をまとめることにしました。

 

 

いつの時代も利用される障害者

かつての障害者は人間として扱われていませんでした。それは見世物小屋やサーカス団の歴史が物語っており、今や廃れて久しい文化です。

そして現代の障害者の社会的な役割は「イメージ戦略の道具」でしょう。彼らに対して保護活動や各種補助を行うことで、社会的なイメージの向上を図ると同時に「人権」という大きな後ろ盾を得ることができます。つまり、障害者などの社会的弱者を守ることで自分たちも巨大な権力に守られるわけです。日本ユニセフのアグネスが豪遊生活やエセ人権活動でどれだけ叩かれてもほぼノーダメージなのはこのためです。どれだけ黒い影があろうと、「弱者を救っている」という世間的な大義名分は揺るがないのです。

真の意味での平等は絶対に成し得ない

仮に世界が健常者だけになったとしても、そこには絶対的な平等などありえません。見た目も能力も生まれも違う人同士が集まれば、必ず「絶対的な差」が生まれます。

そもそも、助けるべき対象は障害者も健常者も関係なく存在します。「障害者だから助ける」というのはそれこそ「差別」です。助けるべき理由は「困っているかどうか」であり、「障害者かどうか」であってはならないはずです。

障害者も健常者も「一枚岩」ではない

障害者について論ずる時、「障害者は~だから」と半ば断定する口調で話す人はかなり多い。例えば足が不自由な人ならば当然移動が大変だろうし、目が不自由な人ならば誰かの助けが無いとマトモに生きるのも難しいでしょう。しかし、問題の本質はそこではありません。

まず、障害者だろうと健常者だろうと1人の人間です。それぞれが違った考えを持ってますし、障害者だからとひとくくりに考えられるものではありません。特別扱いされたい人もいれば普通に接して欲しい人もいますし、それはもちろん健常者に対しても同じことです。しかし、この当たり前のことに気付いていない方が非常に多いように思えます。

つまり、健常者の大多数は障害者を「自分たちと同じ人間」として認識していないのです。もちろん厳密には同じではありませんが、それを言ったら全員が同じではありません。

一番障害を受け入れなければならないのは周囲ではなく「本人」

健常者が恐らく最も誤解しているであろう問題です。健常者は障害者を受け入れようとする前に、まず障害者本人が自身の障害を受け入れる必要があります。

バスでお年寄りに席を譲った時に「嫌な顔をされた」と嘆く若者がたまにいますよね?あれも根底にあるのは同じ問題で、嫌な顔した老人は「自身の衰え」を自分で受け入れられていないんです。だから「下に見られた」と感じて被害妄想で怒るような反応を見せます。世論的には「怒る年寄りが害悪」と見られて終わる問題でしょうが、純粋な親切心で席を譲る若者が果たしてどれだけいるでしょうか。心の中に全く「親切な私ってステキ」という思いがない人なんてホントにいるのでしょうか。少なくとも、その時席を譲って年寄りに怒られたことをTwitterで愚痴る若者は、間違いなく何かしらの「見返り」を求めているでしょう。自分の思い通りの結果にならなかったことに対して憤っている点はこの年寄りとある意味では同じなんですよ。どっちも浅ましい人間です。

つまり、障害や衰えなどを受け入れられていない人に対して気をつかう行為はかえって彼らを刺激するわけです。そこを考慮せずに親切の押し売りをすれば嫌な顔をされるのも必然です。

しかし、だからといって放置するのが正解というわけでもありません。かといって助けるのが必ずしも正解とも限りません。そもそも障害をこじらせると「助けられる」という事象に対して劣等感を露にするようになることだって珍しくはありません。その辺は非常にデリケートな問題なので、片方の思いだけで決して解決しません。

「障碍者」と「障碍者」

私はわざわざ「障碍者」と表記する人間は全員レイシストだと思っています。そもそもこの言葉が生まれた経緯は「“ 害”だと差別している気がするから」という健常者の一方的な押し付けからです。当の障害者たちはこんな小さなことで悩んでいませんし、これ自体は何の解決にもつながっていません。

この言葉には障害者からの意見や目線は含まれておらず、正に健常者からの純粋な差別意識によって生まれた言葉なのです。一番の「害」はこの言葉を生み出した人間たちで間違いありません。

自分たちの知らないところで勝手に「可哀想認定」をされて、いつの間にか違う呼び方をされる。こんなに気分の悪いことはそうそうありません。

関われば必ず火傷する障害者論争

障害者の話題は必ず激しい論争を巻きこしますが、それはなぜなのでしょうか?

理由は簡単で、彼らが普通ではないからです。これは善悪の問題ではありません。事実として、彼らは存在しているだけで周囲へ少なからず影響を及ぼします。

例えば車椅子の人がいればどうしても場所をとりますし、混雑している状況ではあまり好まれるものではありません。耳が聞こえない人がいれば、意思疎通するために筆談や手話などが周囲にも求められます。

善悪の問題でないとしても、そこに割くリソースは確実に存在しています。特に金銭的な補助を必要とする場合はなお更のことです。

そしてこの話題に対して何かしらコメントする場合、厄介な問題があります。それは事実上の「中立」が存在しないという点です。仮に「わからない、どちらとも言えない」などという発言すれば、この話題に関していえば「責任を負いたくない、関心がない」と受け取られるので最も悪手です。そしてどちらかに寄った発言をしても、人権家かリアリストのどちらかを敵に回すことになるのです。

つまり、障害者は存在するだけで周囲を対立させる「火種」になるのです。しかもこれは本人の責任ではなく、更に本人にはどうすることも出来ない問題です。周りが勝手に騒ぐので性質が悪いことこの上ありません。そして繰り返し言いますが、これは善悪の問題ではありません。事実として、彼らが騒動の原因になっている点は受け止めなければなりません。善悪関係なしに受け止めた上で、どうするかが問題なのです。

世論は植松聖の思惑通りに

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彼が障害者施設で連続刺殺事件を起こして1年が経ちました。そして戦後最大の連続殺人と呼ばれたこの事件は、世間の障害者に対する目線を改めざるを得ない重要な意味合いを持つこととなります。

障害者の価値

この問題の本質の一つは「障害者の価値」でした。彼が世話をしていた障害者たちは重度の障害持ちであり、仕事はもちろん意思の疎通すら厳しい存在です。社会的に見れば確かに価値が無いと言われても仕方ないでしょう。

しかし、それを表立って言ってはいけない風潮は確かに存在しました。この事件はそういった「皆が思っていたけど言えなかった」ことに切り込んだのです。植松の行いは決して許されるものではありません。しかし、重度の障害者の世話をし続けている人で植松の行動原理に共感した人は確かに存在するようです。

www.asahi.com

恐らくこれは当事者や関係者にのみ許された発言でしょう。しかし、関係者の発言だからこそ意味があるのです。重度の障害者に対して皆が内心思っていたことが世間的に露になったこと、そして当事者も同じ思いだったこと。その言葉の意味を今一度考えなければならないと思います。

SNSで露わになる余裕の無い社会

登山での遭難事故がいい例ですが、世の中では「自己責任」という言葉が重みを増してきています。「自分の面倒を自分で見れない人間は助ける必要が無い」という意味合いがかなり強く、他者への寛容さはほぼないと言っていいでしょう。

そしてこの言葉はダイレクトに障害者に刺さります。重度の障害者は他人の助けなしでは生きられません。「生産能力のない者を生かし続けて何の得があるのか」という声は植松事件の際のコメントでも数多く寄せられたものです。

この言葉から見えてくるのは、「多くの人が自分の面倒だけで精一杯」だということでしょう。他人の面倒を見る余裕などないからこそ、多額の税金と人材を割いてまで彼らを手厚く保護する社会構造に疑念を抱いているのです。

もっと端的に言えば「あんな役立たずより、まともに働いてる俺を助けろ」という潜在意識も垣間見えます。表立ってこのようなことを言えば確実に批判されるのは目に見えてますが、これを感情論抜きで批判することは果たしてできるのでしょうか。

乙武洋匡というモンスター

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著書「五体不満足」で有名になり障害者の代表的存在だった乙武氏ですが、度重なるクズ騒動によりかつての社会的地位は地に落ちました。なぜこれほどまでに彼は増長したのか、なぜこんなになるまで誰も止められなかったのか。それは彼が「無敵のモンスター」だったからです。

「弱者の皮」は最強の鎧

本来弱者であるはずの側が権力を持つと、ある意味では「無敵の人」になります。

例えば「ラッコ」を想像してみてください。彼らは見た目はカワイイですが、その実態は猟師の獲物を食い荒らす害獣なのです。しかし絶滅危惧種に指定されていて駆除ができず、猟師たちはどんな理不尽な目に遭おうと、泣き寝入りするしかありません。

乙武氏もこれと似たようなものなのです。どんなに悪逆非道だろうと、重度障害者の「弱者」である乙武氏を批判することは世間的に躊躇われる風潮がありました。

彼の場合は教職経験があり、社会活動にも熱心な「障害者の顔」のような存在でもあったことが更に厄介でした。その結果、彼はもともとクズで有名だったことにもかなり目をつぶられてきたのです。

影響力を持った弱者

彼は常日頃から自身の障害をネタにして笑いをとるような投稿をよくしていました。おそらく自身を普通の人間として扱って欲しいという大義名分があったのでしょうが、私は前から全く共感できず不快でした。

そういったネタは本当の意味での弱者がやるからこそ意味があるのです。当時から既に社会的な強者であった乙武氏の自虐ネタなどイヤミでしかなく、自分に酔っているナルシストなのは明白でした。

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2013年に起こった入店拒否騒動は彼の本性がむき出しになった事件です。今まで何でも思い通りにしてきた社会的強者の彼が「自分を特別扱いしない」店側に対して癇癪を起こした事件でした。

つまり、彼は決して平等に扱われたくなど無かったということです。更にこの後実名で店側を批判するという愚行を犯しますが、自分に逆らった店を潰してやろうという意図が丸出しでした。大量のフォロワーが総攻撃してくれると確実にわかった上での行動だったでしょうし、この時点で多くの人が彼はクズだと再認識する結果となりました。

平等を訴えたしっぺがえし

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彼にとってゲス不倫騒動は社会活動を送る上でのトドメとなりました。ついに弱者だろうがお構いなしに叩けるほどの燃料が投下されたのです。初代ゲス不倫の川谷絵音なんてカワイく思えるレベルです。

その結果、彼は普通の人間と同等に扱われるというかねてよりの悲願を達成しました。また、重度の障害者でも悪いことをすれば全力で叩かれるという前例を作ったのですから、ある意味ではこれは大きな功績です。

健常者だろうと障害者だろうと「クズはクズである」という当たり前の事実を世間に再認識させるキッカケにもなりました。そして障害者問題を前進させる第一歩は、健常者と同等に扱うという意味で彼を徹底的に叩くことだと私は思います。

 

目に見えない障害

私が今一番どうにかしなければならないのは「目に見えない障害」だと思っています。つまり、ぱっと見では健常者に見える障害者のことです。

かつてあの乙部氏も訴えていた問題ですが、目に見えないということは「周囲の理解が得られにくい」ということでもあります。

例えば私の場合酷い「吃音」だったのですが、症状としては「こ、こ、こここんにちは」みたいに最初の音が連発したり最初の音が発生できなかったりするものです。いわゆる「キモオタ」的な特徴として挙げられることが多いため、障害としてはなかなか認知されていない厄介さがあります。ドラマの「電車男」の大ヒット以来その傾向が顕著になり、私としては非常に迷惑してました。役を演じるにあたっては間違いなく悪意の塊でしたしね。

これは芸人がコントなどでキモオタ役を演じる際も顕著ですが、それに対して生じる笑いは間違いなく「嘲笑」です。それによって世間的には「“ 吃音”の人は笑ってもいい」という状況になっているため、当事者でもない限りこの状況に何の疑問も持ちません。

この「無意識な差別」こそ目に見えない障害の一番の問題です。そもそも日本の芸人がよくやる「コンプレックスを笑いに変える」という手法が害悪な文化だと私は思います。特にハゲネタなんかは最たる例です。イジりとイジメの境界があやふやになっている原因も、そこらの芸人の下卑たネタの影響が大きいのではないでしょうか。

まとめ

障害者論争は善悪を抜きにして考えなければならない問題が山ほどあります。ですが、24時間テレビが相変わらず障害者特集を設けているのを見る限り、やはりメディアは障害者を道具としてしか見ていないようです。感動ポルノに本気で感動する層も確かに存在するようですが、その需要がなくなることが意識改革への第一歩だと思います。

どう転んでもこの問題が円満解決することは絶対にありませんが、それでも今よりは息苦しくない世の中になることを願います。